1番センター柴田 赤い手袋のエピソード
柴田勲選手の赤い手袋のエピソードは、1967年のアメリカ・ベロビーチ(ドジャースのキャンプ地)での春季キャンプがきっかけです。ヘッドスライディングを教わっていて練習中に両手の平をすりむいてしまいました。血がにじんでバットが握れないので慌てて手袋を探しに行きました。宿舎近くのゴルフショップに行きましたがサイズが大きく片手用しかなかったのです。諦めて帰りかかったところレディースコーナーを見ると、赤い両手用の手袋が置いてありました。試しに合わせてみると23㎝でぴったり。応急処置で臨んだ試合は、2安打2盗塁の好成績。「これは縁起がいいなと。それで日本に持ち帰ったんです」。
ところが、日本球界は手袋をして打つなんてまかりならぬ時代。「僕も打つ時は素手。塁に出たらポケットから取り出して、はめていました」。一連の動作がまるでゴーサインのように走りまくり、自身最多のシーズン70盗塁を記録。「そこから“赤い手袋”と評判になりました」。2年ほど経つと「面倒くさいから最初から手袋をして打ちました」。レギュラーで実績を残し続ける柴田氏に対し、首脳陣も文句のつけようがなかった。
もしゴルフショップに有った手袋が緑色や黄色だったらと思うと、どうなっていたかなんて想像もつかないですよね。
2番レフト高田繁 青いグローブのエピソード
高田選手の青いグローブは1976年に長嶋監督によりレフトからサードにコンバートされた時に特注でデザインされました。直前のアメリカキャンプで海外の選手がカラフルな色のグローブを使っているのに驚いたこともあったのですが、後楽園球場が全面人工芝となり濃緑の人工芝のフイールドで目立つようにと鮮やかなブルーの色が選ばれました。このグローブはライナーバックと呼ばれる人差し指を出す穴付きで十字クロスのウェブが特徴的で中央には赤い優勝カップの刺繡が施されていました。このグローブは『高田モデル』として野球少年のやプロ野球ファンの憧れの的となりました。
番外編 高田選手大学時代のエピソード
高田選手は明治大学の御大・島岡監督の鉄拳制裁を受けなかった数少ない選手と言われています。技術の高さはもちろんの事、気配りができスマートにそつなく行動する姿、そして少年時代から空手をたしなみ大阪の浪商高校でも1年生からずっとレギュラーで妬みや虐めらしき扱いも受けながら屈することのなかった芯の強さも島岡監督の認めるところとなったようです。4回生となりキャプテンを任され当時は学生運動が盛んで大声を出し角棒を振り回す学生の集団を見かけると『高田、静かにさせてこい』の御大の一声で、学生運動の集団をたった一人で制圧をしたエピソードも事実です。卒業を前にして監督室に呼ばれ会話中にコンタクトレンズが外れ、御大は椅子から滑り落ちんばかりに驚き「高田、お前はいつからコンタクトをしていたんだ」と問いかけ「入学時からです」の答えに椅子から完全にずり落ちひっくり返ったそうです。鉄拳制裁を受けなかったもう一人は一年後輩の星野仙一選手でした。高田選手がキャプテンの時に通常1、2回生がする部屋子と言われる身の回りのお世話係に3回生の星野選手を御大が指名し高田選手の布団の上げ下げもしたそうです。のちに闘将と呼ばれプロ野球界でも一目置かれる星野選手が唯一頭が上がらなかった先輩と語っているのも見たことがあります。
誰よりも実力があり高い技術を持ちハンサムでスマートでクールに見えながらも、奥に秘めた武闘派とさえ呼ばれる闘争心、スーパーマンここにありですね。