柔道界のレジェンド 野村忠宏の謎!オリンピック3連覇の偉業にも関わらず国民栄誉賞を受賞できない裏側

 オリンピック3連覇という、日本のスポーツ史に燦然と輝く偉業を成し遂げた柔道家・野村忠宏選手。彼の名は柔道史上に永遠に刻まれていますが、不思議なことに国民栄誉賞の受賞者リストには名前がありません。なぜ、これほどまでの功績を残した選手が最高の栄誉を与えられていないのでしょうか?その謎に迫ります。

輝かしき「3連覇」という偉業

 野村忠宏選手は、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと3大会連続で金メダルを獲得しました。この偉業は柔道史上初、さらには夏季オリンピックの個人種目においてはアジア人初という歴史的な快挙でした。さらに、アテネオリンピックでの彼の金メダルは、日本人通算100個目という記念すべきものになりました。

特筆すべきは、彼の柔道が単なる力技ではなく、多彩な技や抜群の切れ、スピード、天性の守りのカンが天才的と称されたことです。相手を事前に研究しないことや、試合前後の誰も寄せつけない集中ぶりから「天才肌」と言われていました。

柔道一家に生まれ、女子に負けた少年時代

 野村選手は柔道の血統書付きで生まれました。祖父は地元・奈良で道場「豊徳館野村道場」を開いた柔道師範の野村彦忠さん。叔父は1972年ミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和さん、父は元天理高校柔道部監督で名選手を育てた野村基次さんという「柔道一家」の出身でした。

しかし、そんな彼にも挫折はありました。中学生時代、初めて出場した市民大会の1回戦で女子選手に負けるという屈辱を味わったのです。「悔しさよりも恥ずかしくて…」と後年語っていますが、この敗北が彼の中に「ナメられたくない」という強い思いを生み出しました。

この少年が、後に世界の頂点に3度立つことになるのです。

謎の国民栄誉賞「不受賞」

 そんな野村選手ですが、なぜか国民栄誉賞の受賞者にはなっていません。国民栄誉賞とは、1977年に福田赳夫首相(当時)の発案で創設された賞で、第1号はプロ野球の王貞治選手でした。

受賞基準は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの」とされていますが、実際の選考過程ははっきりしていません。民間有識者の意見を聞くというものの、最終的には首相が判断するとのことです。

これまでにスポーツ選手や芸術家など26人と1団体(なでしこジャパン)が受賞していますが、なぜか野村選手はその中に含まれていないのです。

「現役時代の言動を振り返ったら、もらえない」本人の告白

 2022年8月、野村選手はテレビ番組「人志松本の酒のツマミになる話」に出演し、国民栄誉賞をもらえない理由について自ら言及しました。彼は「現役時代の言動を振り返ったら、もらえない」と確信していると告白したのです。

その理由として挙げられたのが、シドニーオリンピックでの記者会見でのエピソードでした。同じ日に試合があった田村亮子選手(当時)が、3度目の挑戦で初めて金メダルを獲得し、記者から「この金メダルは田村選手にとってどんなものですか?」と問われた際、「ようやく初恋の人に出会いました」と答えました。

これを受けて野村選手は、自身の2度目となる金メダルについて「2つ目だから愛人みたいなものです」と回答。この発言が問題視された可能性があると、自身で示唆したのです。この質問に対して松本人志は「最悪」「原因はそれ!」と断言していました。

国民栄誉賞を辞退した偉人たち

 一方で、国民栄誉賞の授与を打診されながらも辞退した人物も複数います。

特筆すべきは、野球選手のイチローさんが3回も辞退している事実です。2001年のメジャーリーグ初年度の活躍、2004年のシーズン最多安打記録更新、そして2019年の現役引退時と、3度にわたって打診されましたが、いずれも固辞。最後は「人生の幕を下ろした時にいただけるよう励みます」と返答しています。

他にも、世界記録の939盗塁を達成した福本豊さんは「国民の模範となる自信がない」として辞退。2021年には「二刀流」で活躍し満票でMVPに選出された大谷翔平選手も「まだ早い」として辞退しています。

国民栄誉賞の基準に疑問の声も

 国民栄誉賞の授与基準については、疑問の声も少なくありません。ブログ「SUZUのちょっとブレイク」では、「同じ活躍で多大なる功績を残していながら、受賞した方もいれば、もらえない方がいるのは、その基準を疑う」と指摘しています。

例えば、宮崎駿監督やSMAP、嵐なども若者に多大な影響を与えていますが受賞していないという点や、前人未到の世界スプリント10連覇の偉業を成し遂げた中野浩一氏も受賞していない点などを挙げ、「政府はどこに評価規準を置いているのかまるで見えない」と批判しています。

また、「国民栄誉賞はぜひ『国民投票』で選ぶのが筋であり、平等な選考だと思っている」という意見も出ています。

五輪3連覇の舞台裏

 アトランタオリンピックで初めての金メダルを獲得した時の舞台裏にも、あまり知られていないドラマがありました。当時21歳だった野村選手の決勝の直前、女子48級で「ヤワラちゃん」と呼ばれた田村亮子選手が敗北。会場は静まり返ってしまいましたが、野村選手はこの状況を見て「これで優勝したらヒーローになれる」と奮起したといいます。

また、アテネオリンピックでの3連覇達成後には、ミックスゾーンでのインタビューをスルーしてしまったことを後悔していると告白しています。田村選手のインタビューが長引き、イライラした野村選手はインタビューを受けずに立ち去ってしまいました。「3連覇を達成した直後のインタビューがない。あの時、感情のままにミックスゾーンで話していたら、ドえらい名言が飛び出ていたかもしれない」と振り返っています。

「国民栄誉賞」と野村忠宏、その関係性

 野村忠宏選手の偉業は国民栄誉賞の有無にかかわらず、日本スポーツ史に燦然と輝いています。オリンピック3連覇という偉業と、そこに至るまでの努力と才能は誰もが認めるところでしょう。

国民栄誉賞の授与が「時の内閣の匙加減や好き嫌いで授賞の可否を判断」されている面があるなら、野村選手が受賞できていないことは制度そのものの在り方を問い直す機会ともなります。

野村選手自身は現在、名城大学薬学部特任教授として後進の指導にあたりながら、メディアでのコメンテーター活動なども行っています。引退会見では「自分が主役じゃなくて、若い選手たちを主役に引き上げる仕事をしていきたい」と述べており、国民栄誉賞の有無にかかわらず、日本スポーツ界に大きな貢献を続けているのです。

彼のように国民に感動を与え続けてきた選手が国民栄誉賞を受賞できない理由がどこにあるのか。この謎は、今後も日本のスポーツファンの間で語り継がれていくことでしょう。

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