前田日明vs赤井英和 “大阪が壊れる”と恐れられた二大喧嘩番長の知られざる関係と驚きの半生

 2025年4月、「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演した元格闘家の前田日明(66)が、かつての大阪を揺るがした”伝説の喧嘩番長対決”の真相を明かし、話題となっています。格闘王と呼ばれた前田と、「浪速のロッキー」の異名を持つ赤井英和(65)。今回は、同年代の二人が歩んだ驚きの半生と、知られざるエピソードに迫ります。

大阪を二分した伝説の喧嘩番長

「前田さんと赤井さんが街で出会って喧嘩したら、大阪が壊れる」

1970年代後半の大阪では、こんな恐るべき都市伝説が囁かれていました。前田日明と赤井英和、二人の名前を知らない若者はいなかったと言われるほど、その存在感は絶大だったのです。

前田は北陽高校、赤井は浪速高校に在籍し、それぞれが格闘技の道を歩み始めていました。前田日明は10歳で少林寺拳法を始め、高校1年で空手の道場に通い始めました。道場の先輩から「初段の意味知ってるか?自動車の免許で言うと仮免や。仮免には路上教習があるんや」と言われ、毎週「半地下の駐車場でルールなしの異種挌闘技戦」を経験。そこで圧倒的な強さを見せて「大阪で有名なケンカ番長になった」のです。

一方の赤井英和は、西成区育ちの”ごんたくれ”。意外にも「小学生までは成績もクラスで一番、二番でしたし、学級委員をやるくらい優秀」だったという赤井ですが、中学入学式の日にケンカを始めたことで人生が変わります。当時を赤井はこう振り返ります。

「小学校の友人は誰もいない。『どないしたらええんや』と思い悩んだ結果が、『ケンカをして、仲良くなること』だった」

“電車内喧嘩”事件の真相

 大阪で知らぬ者がいないほどの存在だった二人について、「電車の中で前田と赤井がとんでもない大ゲンカをして元阪神の岡田(彰布)に仲裁される」という都市伝説が広まりました。しかし、前田日明は番組でこの噂を完全否定します。

「これはデマ。なんでかっていうと、赤井は南海電車なんですよ。俺は阪急なんですね。全然路線が違って、会うことがなかったですね」

この意外な真相に、スタジオは騒然となりました。

前田日明、空手から格闘王へ

 大阪の喧嘩番長から、前田日明はプロレスの世界へと足を踏み入れます。新日本プロレスからUWFへと活動の場を移し、「選ばれし者の恍惚と不安、2つ我あり」という有名な言葉で第二次UWFを旗揚げ。その後、リングスを創設し、総合格闘技の礎を築いていきました。

特に有名なのが1986年4月29日、三重県・津市体育館で行われた前田日明とアンドレ・ザ・ジャイアントの一騎打ちです。この試合では、後にアンドレがリング上で倒れ、無効試合となる衝撃的な展開となりました。

「アンドレ戦のときは会場の奥のほうから見てたんだけど、様子がおかしいのはすぐわかったからさ。『あっ、このままじゃアイツ、殺されるぞ』と思って、リングサイドに走っていったんだよ」と当時のセコンドを務めた藤原喜明が証言しています。

また、”伝説の控え室ボコボコ事件”としてネット上で有名となった1995年の出来事も忘れられません。リングスの鹿児島アリーナ大会で、第1試合に出場した坂田亘に対し、前田が控え室で殴る蹴るの制裁を加えた様子が映像として残っているのです。

前田はその理由をこう語っています。「だって、まったく気合の入ってない試合やったんだもん。これには伏線があって、前に同じ相手とやった試合が酷かった。そのときに『お前、わかってるな。次、同じような試合をしたら……』って釘を刺してたわけ」

赤井英和、「浪速のロッキー」と呼ばれた男

 他方、赤井英和は中学・高校時代の荒々しい日々を経て、ボクシングの世界で頭角を現します。高校受験前日に「なんやお前、浪速高校も受けられへんのか」と兄に煽られて受験し、合格。そして「先輩が『浪高受けたんか、なら明日の10時に食堂の前に来い』と言われるまま行ったら、そこがボクシング部の道場やった」という偶然からボクシングの道に進むことになりました。

プロボクサーとしてデビュー後は、12連続KO勝利という当時の日本記録を樹立。「浪速のロッキー」と呼ばれ、時の世界王者を凌ぐほどの人気を誇りました。

しかし、その輝かしいキャリアは1985年2月5日の試合で突然の終わりを迎えます。大和田正春との試合で脳挫傷の大怪我を負い、一命は取り留めたものの引退勧告を受けたのです。赤井は25歳という若さでボクシングを引退し、その後俳優・タレントに転身しました。

意外な素顔と知られざる趣味

 格闘技の世界で恐れられた二人ですが、意外にも繊細な一面を持っています。

前田日明は日本刀のコレクターとして知られており、24歳の時に初めて日本刀を手にして以来、30年以上にわたって収集と研究を続けています。「海外のコレクターや格闘家仲間にも日本刀の素晴らしさを伝えている」と語る前田は、日本刀の将来を真剣に案じる一面も。また、趣味は釣り、読書、鉱物収集など多岐にわたります。

赤井英和は、いつも明るく朗らかな人柄でファンに親しまれています。友人のトミーズ雅は「毎年12月23日に電話が掛かってきて、”もしもし、赤井やけど、誕生日おめでとう”と言われる。俺の誕生日は12月24日なのに、22年間毎年1日間違えている」というエピソードを明かし、笑いを誘いました。

意外なところでは、「半沢直樹」に出演した際には台詞にアドリブを取り入れたこともあります。「『お前、そんなしょうもないことせんと家帰って、屁こいて寝え』っていうセリフは自分で考えたんです」と赤井は明かしています。

次世代への影響と現在の活動

 前田日明は現在も格闘技の世界で影響力を持ち続けており、若手選手の指導や「THE OUTSIDER」大会のプロデュースを通じて、朝倉未来、朝倉海などの新世代の格闘家を輩出しています。

その一方で、プロレス界の安全性については厳しい目を向けており、最近では技の危険性について言及し、現役レスラーからの反発を受けるなど物議を醸しました。

赤井英和は2012年に母校の近畿大学ボクシング部総監督に就任し、ボクシング界に戻ってきました。また、息子の赤井英五郎もボクサーとなり、父の背中を追いかけています。最近では2024年11月にサイバーコム株式会社の初テレビCMに起用され、プロボクサー時代を彷彿とさせるシャドーボクシングを披露しました。

二人が残した格闘技界への功績

 前田日明と赤井英和、同じ1959年生まれの二人は、それぞれが格闘技の世界に大きな足跡を残しました。前田はプロレス・総合格闘技の普及に貢献し、赤井はボクシングの魅力を広く伝え、多くのファンを生み出しました。

“大阪が壊れる”と恐れられた二人の対決は結局実現しませんでしたが、それぞれが歩んだ波乱万丈の人生は、今もなお多くの人々を魅了し続けています。格闘技の枠を超え、日本のエンターテインメント界に大きな影響を与えた二人の伝説は、これからも語り継がれていくことでしょう。

タイトルとURLをコピーしました