読売巨人軍9連覇の立役者達 2番レフト高田繁

読売巨人軍9連覇の”名脇役” 高田繁選手の軌跡

 読売巨人軍の9連覇(1965年–1973年)の中心には、多くのスター選手がいましたが、その中でも堅実かつ確実なプレーでチームを支えたのが、2番・左翼手の高田繁選手です。今回は、巨人軍での活躍に加え、中学、高校、そして明治大学時代のエピソードも交えながら、高田選手の軌跡を振り返ります。

高田繁選手のプロフィール

  • 生年月日: 1945年7月24日
  • 出身地: 大阪府大阪市
  • 出身校: 明治大学
  • ポジション: 外野手(左翼手)
  • 投打: 右投右打

中学時代のエピソード

 高田選手は、大阪府の中学校で野球を始め、当時からそのセンスと運動能力の高さが際立っていました。少年時代は野手として才能を発揮し、その俊足と強肩が注目を集めていました。特にチームの中心選手として打撃と守備で活躍し、周囲から高い評価を受けていました。また、打者としても非凡な才能を発揮し、チームの中心選手として注目を浴びました。

高校時代のエピソード

 中学校時代は成績優秀であったため、当初は大阪府立岸和田高校への進学を希望していたが、野球をしたいがために途中で志望を変更し大阪府の名門浪商高校(現在の大商学園高等学校)に進学。1年生の夏には、甲子園に出場し、見事優勝を果たしました。この大会では、チームのエースである尾崎行雄投手を支え、俊足巧打の外野手としてチームの優勝に大きく貢献しました。高校時代には、本格的に外野手としての技術を磨き始めました。特に、高校2年生時には、俊足と強肩でチームの守備力を大きく引き上げる存在となりました。

また、3年生の夏の大阪府大会では、投手として準々決勝まで進出するも惜敗。その後も練習に励み、周囲からは「浪商高校の誇り」と称されるほどの存在感を示しました。この時期に培った基礎が、明治大学やプロでの活躍につながる重要な礎となりました。

明治大学での活躍

 高田選手は明治大学時代、東京六大学野球で頭角を現しました。東京六大学野球リーグでは優勝こそなかったものの、1年次の同年秋季リーグから7季連続ベストナインを受賞し、7度のベストナインは現在も六大学記録である。大学通算打率.325を記録し、チームの中軸打者として活躍。特に、1965年春季リーグではリーグ優勝に貢献し、自身も首位打者に輝きました。

また、当時の東京六大学野球は全国から実力者が集まる場であり、その中で高田選手はリーダーシップを発揮。グラウンド内外で模範となる姿勢が、後にプロ野球でも評価されることになります。

巨人軍での役割

 巨人軍に入団した高田選手は、持ち前の守備力と確実な打撃でチームに貢献しました。2番打者として、王貞治選手や長嶋茂雄選手らクリーンナップにつなぐ重要な役割を担いました。

  1. 確実な送りバントと打撃 高田選手は、バントや右打ちなど、チームプレーに徹する姿勢で知られていました。送りバントの成功率は極めて高く、得点機を作り出すことに長けていました。
  2. 堅実な守備 左翼手としての守備力も高く評価されています。広い守備範囲と正確な送球で、数多くのピンチを救いました。特に1971年の日本シリーズでは、左翼守備での好プレーが印象に残っています。
  3. 精神的支柱としての存在感 高田選手は、華々しさこそないものの、安定したプレーと冷静な判断力でチームを支えました。その姿勢は若手選手の模範となり、9連覇を通じて不可欠な存在でした。

印象的なエピソード

  • 1971年の日本シリーズ 高田選手は、勝負所での勝負強い打撃と堅実な守備でチームを支え、シリーズ制覇に大きく貢献しました。
  • チームメートとの信頼関係 高田選手はその誠実な人柄から、チームメートや監督からも厚い信頼を寄せられていました。クリーンナップを支える”縁の下の力持ち”として、巨人軍の攻撃を陰で支えました。

引退後の活動

 引退後の高田選手は、野球解説者や指導者として活躍しました。また、フロント業務にも携わり、プロ野球の発展に寄与しました。その飾らない人柄と的確な指導は、多くの人々に影響を与えています。

まとめ

 読売巨人軍9連覇の中心で活躍した高田繁選手。その堅実なプレーとチームプレーに徹した姿勢は、プロ野球史において今も語り継がれています。中学時代から高校、大学、そして巨人軍での安定した活躍まで、高田選手の足跡は、多くの野球ファンにとって特別なものです。

彼のような選手がいたからこそ、巨人軍は9連覇という偉業を成し遂げることができたのです。

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