2025年4月23日、49歳で惜しまれつつこの世を去った大宮エリーさん。本名・大宮恵里子。作家、画家、脚本家、映画監督、CMディレクター、エッセイスト、ラジオパーソナリティ――ジャンルを超えて活躍し続けた“唯一無二のマルチクリエイター”でした。彼女の人生と創作の裏側には、数々のユニークなエピソードと人間味あふれる素顔が隠されています。
異色の経歴と多彩な肩書き
1975年、大阪府生まれ。東京大学薬学部を卒業後、広告代理店・電通に入社。コピーライターやCMディレクターとして頭角を現し、広末涼子出演の「ドコモ」CMでデビュー。その後も「ネスカフェ ゴールドブレンド」など数々のヒットCMを生み出しました。
2006年に独立し、「大宮エリー事務所」を設立。同年、映画『海でのはなし。』で監督デビューを果たし、スピッツやMISIAなどのミュージックビデオも手がけました。脚本家としてはNHK『サラリーマンNEO』や日テレ『三毛猫ホームズの推理』など、テレビの世界でも活躍。
そして2012年、渋谷PARCOミュージアムで初の個展を開催。以降、国内外で個展やアートプロジェクトを展開し、画家としても高い評価を得るようになりました。
「夢中」の人――創作の原動力
大宮エリーさんの創作の根底には「夢中」というキーワードがありました。彼女は「夢中の最中に結果を気にするのはかっこ悪い」と語り、振り返って初めて“あの時は夢中だった”と気づくものだと考えていました。依頼や新しい挑戦にも「頼む人の方が怖いはず。だから自分も勇気を出して応えたい」という思いで臨んでいたそうです。
「固定観念にとらわれず、自分の気持ちを大事にしたほうが自分本来の生き方ができる」と語り、失敗や迷いもすべて“夢中”の一部として受け入れていたのが彼女らしさでした。
画家としての覚醒――“人助け”から始まった絵の道
実は大宮エリーさんが画家として本格的に活動を始めたのは2012年、PARCOミュージアムでの個展がきっかけ。最初のライブペインティングは、モンブラン国際文化賞受賞者・福武總一郎氏へのお祝いとして急遽依頼されたものでした。人生初の人前での制作は大好評を博し、以降、個展やアートイベントへの参加が続きます。
彼女自身は「画家になったきっかけは人助けだった」と語っています。誰かのために、何かの役に立ちたい――そんな思いが、彼女の創作の原動力となっていました。
鳥取大学医学部附属病院の壁画制作では、「病院にリゾートの絵なんて不謹慎では」と心配しつつも、患者や家族が一瞬でも現実を忘れられるような絵を描きました。「ここはどこだろう?と思わせるような絵がいい」というリクエストに応え、鮮やかなリゾート地の風景を描いたエピソードは、彼女の“人に寄り添う”姿勢を象徴しています。
“やらかし”とユーモア――失敗も人生の一部
大宮エリーさんは、自身の失敗談や“やらかし”エピソードをよく語っていました。電通時代、重要なプレゼンに遅刻して会社の前から帰ってしまったことも。「NOやらかし、NOライフ。やらかさないのは人生じゃない!」と、失敗すらも前向きに捉える姿勢が多くの人を勇気づけました。
また、ラジオパーソナリティとしても人気で、リスナーやゲストと飾らないトークを繰り広げていました。彼女のエピソードには、常に笑いと温かさがありました。
恩人との出会いと支え
彼女の人生に大きな影響を与えた人物の一人が俳優の緒形拳さんです。緒形さんは「長いものを書いた方がいい」とアドバイスをくれ、大宮エリーさんが作家としての道を歩むきっかけを与えてくれた恩人でした。緒形さんが亡くなった後も「舞台を一緒にやりたかった」と語り、その存在の大きさをしみじみと振り返っています。
自由奔放な生き方――“宿無し”でフジロック参加も
大宮エリーさんは、型にはまらない自由な生き方でも知られていました。初めてのフジロックフェスティバル参加時、宿を取らずに現地入りし、現地でなんとかなるだろうと“宿無し”で乗り切ったエピソードも。カンヌ映画祭でも同じように宿無しで参加したことがあり、「宿に拘束されたくない」という発想が彼女らしい自由さを物語っています。
晩年まで精力的に活動――独自の世界観と社会貢献
2020年にはオンラインの学校「エリー学園」を開校し、クリエイティブな発想や“夢中”の大切さを伝える活動も展開。2022年には瀬戸内国際芸術祭で犬島に2メートルの立体作品「フラワーフェアリーダンサーズ」を設置するなど、晩年まで新しい表現に挑戦し続けていました。
生涯独身を貫き、家族や結婚についても「豊田エリーさんと混同されることが多い」と笑い話にしていたそうです。
人々の心に残る“エリーらしさ”
大宮エリーさんの訃報には、「天才がまたひとり逝ってしまった」「言葉にも絵にも人間味があった」「もっと活躍を見たかった」と惜しむ声が相次ぎました。その作品も言葉も、そして生き方そのものが、多くの人の心に深い印象を残しています。
「夢中でやってきて良かったなぁと改めて思う、そんなのとか。結果は後からついてくるという感覚です」
この言葉の通り、彼女の“夢中”が生み出した作品やエピソードは、これからも語り継がれていくでしょう。
まとめ
大宮エリーさんは、ジャンルや肩書きにとらわれず、自分の“好き”と“夢中”を貫いたマルチクリエイターでした。失敗も迷いもすべてを受け入れ、誰かのために、何かのために、常に新しい挑戦を続ける――その生き方こそが、彼女の最大の作品だったのかもしれません。