トルネード旋風から30年!野茂英雄が語らなかったドジャース時代の衝撃秘話

 2025年、野茂英雄がドジャースユニフォームに袖を通してから30年の節目を迎えました。日本人初の本格的メジャーリーガーとして、「トルネード投法」で米国を席巻した野茂投手。大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希と、今や日本人3投手がドジャースの先発ローテーションを支える時代となりましたが、その礎を築いたのが野茂英雄でした。今回は、あまり知られていない野茂投手のドジャース時代のエピソードをご紹介します!

「近鉄を出る理由は間違えてほしくない」任意引退の真相

 野茂投手のメジャー挑戦は、決して当初から計画されていたものではありませんでした。近鉄時代の5年間で4度の最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得した日本を代表する投手でしたが、1994年シーズンに鈴木啓示監督との確執が表面化したのです。

「投手は、投げてなんぼや。もっと投げろ。もっと練習しないと、この先、すぐにアカンようになる」という鈴木監督。対して野茂投手は「投手の肩は消耗品」という考えでした。キャンプ中に監督が全投手の投げ込み数を表にして貼り出すなど、方針の違いは明らかに。野茂投手は「露骨にイヤな顔」で報道陣の質問に答えていたといいます。

さらに衝撃的なのは、後にチームメイトだった金村義明氏の著書で明かされた野茂投手の言葉。「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」。任意引退という形でのメジャー挑戦には、こんな裏事情があったのです。

「キミの勇気を称えたい」ドジャース入団の決め手

 1994年のオフ、契約更改交渉で代理人の団野村氏とともに「複数年契約」を要求し、それが認められないとわかると「メジャー行き」を主張。交渉が平行線になれば「任意引退」という、野球協約の”盲点”を突く交渉術でメジャー挑戦への道を切り開きました。

その野茂投手がドジャースに決めた最大の理由は、ピーター・オマリー会長の言葉でした。「日本での地位を捨ててまでメジャーリーグでやってみたいというキミの勇気を称えたい。私はキミのような青年が好きなんだ」。日本を旅立つ際、「裏切り者」「どうせ通用しない」とバッシングされていた野茂投手にとって、この言葉は大きな励みになったのです。

驚くべきことに、近鉄時代の年俸1億4000万円から、わずか980万円のマイナー契約でドジャースに入団。「もしも彼と契約するにしてもマイナーリーグ契約だ」というオマリー会長の当初の発言通り、「日本人がMLBでやれるわけがない」という当時の米国側の認識が表れていました。

「野茂は物静かな人物だが…」チームメイトが見た素顔

 野茂投手のメジャー挑戦初年度は、前年からの選手ストライキが終結したばかりの1995年。そこで思わぬトラブルが発生します。ドジャースが「代替選手」の契約を結んだことのある選手を昇格させたことで、選手会が反発。その結果、野茂投手はチームメイトからキャッチボールすら拒否され、食堂も出禁になるという事態に。

一方で、ドジャースの初代通訳を務めた奥村政之氏は、日本では常に険しい表情だった野茂投手が、ロサンゼルスに着くと「本当に嬉しそうで、何かから解放されたように常に笑みが溢れ出ていました」と証言しています。英語力は「当時はゼロでした。全く喋れない状態」だったといい、言葉の壁も大きな苦労だったようです。

「アメリカでは、ファンもメディアも、勝たないと評価してくれなかった」

 野茂投手のフォームは、アメリカでも最初は批判の対象でした。「先発した最初の5ゲームは、勝敗がつきませんでした」と振り返っています。しかし、勝ち始めると状況は一変。その独特なトルネード投法から繰り出されるストレートとフォークボールの組み合わせに、NOMOマニアが誕生し、彼が先発する試合には観客が1万人も増えたといいます。

ブリチャーレポートの「最もユニークな投球モーショントップ10」で、野茂投手は2位にランクイン。「たちまちMLBを心酔させたノモの成績は突出している。しかし、その魅力的な投球フォームもまた、彼を本物のセンセーションにした要因だ」と絶賛されています。

「荒廃していた野球界に旋風を起こした」MLB低迷期の救世主

 1994年から1995年にかけて232日間続いたストライキで、MLBはファン離れが進行していました。そんな時期に現れた野茂投手の活躍は、米国野球界の救世主となります。特に1995年6月2日のニューヨーク・メッツ戦での初勝利、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録となる16奪三振、24日のジャイアンツ戦での初完封勝利と、立て続けに記録を打ち立て、ファンを球場に呼び戻しました。

本拠地ドジャー・スタジアムでは三振を取るたびに熱狂するファンの姿に、MLBのコミッショナーやチームオーナーたちは安堵したのではないでしょうか。野茂投手の投げる試合の観客動員数が1万人増えるという現象は、まさに「トルネード旋風」そのものでした。

「大事なことでした」野茂がカメラの前で”笑顔”を見せた瞬間

 前出の奥村氏によると、ドジャース入りした野茂投手は、それまで見たことがないほどの笑顔を見せていたといいます。ある記者会見では「野球を楽しみたい」と発言したところ、「日本メディアの8割が怒った」という逸話も。当時の日本では「野球は厳しく取り組むもの」という風潮があり、「楽しむ」という表現に違和感を持つ人も少なくなかったのです。

また、石橋貴明氏を朝まで説教していたというエピソードもあるようですが、詳細については検索結果からは分かりませんでした。野茂投手の多面的な性格を示すエピソードとして興味深いですね。

「ドジャースというチームは、自由というのでしょうか」

 野茂投手自身が成功の要因として、「ドジャースというチームは、自由というのでしょうか。固定観念に縛られていない。新しい異質なものに対する拒否反応が少ないんです」と語っています。1947年にジャッキー・ロビンソンというアフリカ系アメリカ人選手を初めて入団させた球団の歴史にも触れ、新しいものを受け入れる文化がドジャースの強みだと指摘しています。

この言葉は、現在ドジャースに所属する大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希の日本人3投手の活躍にも通じるものがあります。野茂投手が切り開いた道が、30年の時を経て、さらに大きく広がっているのを見ると感慨深いものがありますね。

メジャーリーグで日本人選手が活躍する今、その先駆者である野茂英雄投手の功績は計り知れません。13年のメジャー生活で通算123勝、2回のノーヒットノーランを達成した「トルネード」。その足跡は、いまも多くの投手たちに勇気と希望を与え続けています。ドジャースの「16」から「17」へ、そして山本、佐々木へと続くドジャースの日本人投手の系譜は、30年前の野茂投手の挑戦なくしては考えられなかったのです。

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