60年前、まだ誰も踏み入れたことのない世界への扉を開いた男がいました。1964年9月1日、20歳の若さでメジャーリーグのマウンドに立った村上雅則投手。「マッシー」の愛称で親しまれた彼は、サンフランシスコ・ジャイアンツの一員として日本人初のメジャーリーガーとなりました。野茂英雄や大谷翔平の遥か前に、一人の若者がアメリカンドリームを体現していたのです。今回は、そんなマッシー村上の驚きと笑いに満ちたエピソードをご紹介します!
「辞書片手に話しかけて」英語ゼロからの奮闘記
南海ホークス(現ソフトバンク)から「野球留学」という形でアメリカに渡ったマッシー村上。しかし、当時の彼に英語力はほとんどありませんでした。
「英語は全然できなかったから、グラウンドで和英辞典を持って他の選手に話しかけてね。そのうち会話ができるようになり、意外と早くうち解けました」と村上氏は振り返ります。
渡米後、通訳は2週間で帰国してしまい、以後は常に英和辞典と和英辞典を持ち歩くという強者ぶり。チームメイトが何を言っているのかチンプンカンプンだったそうですが、持ち前の社交性で「マッシー」の愛称を得て、次第にチームに溶け込んでいきました。
「スキヤキソング」を口ずさみながらメジャーデビュー
1964年9月1日、ニューヨーク・メッツとの試合で、ついに日本人初のメジャーリーガーが誕生します。8回裏、場内アナウンスが「ナウ・ピッチング! ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」と響き渡りました。
緊張のあまり萎縮してはいけないと、マウンドに向かう際、当時全米で大ヒットしていた坂本九の「スキヤキ・ソング」(上を向いて歩こう)を口ずさんでいたというエピソードは、彼の機転の良さを物語っています。
この歴史的な初登板では、1回を1安打2三振の無失点で抑える好投を披露。チームは敗れましたが、日本人初のメジャーの舞台で堂々とした投球を見せたのです。
「誰が誰だか分からず」殿堂級の打者に立ち向かう
マッシー村上が対戦した相手はハンク・アーロン、ロベルト・クレメンテ、ピート・ローズなど、後に殿堂入りする超一流の選手たちでした。しかし、実は彼はこれらの大打者が誰なのかよく分かっていなかったと明かしています。
「当時はスコアボードに名前も出ないしさ。ジャイアンツで言えば、センターフィールド、ウィリー・メイズというのが、〈CF 24〉って書いてあるだけだもん。フランク・ロビンソンも、ハンク・アーロンも、誰が誰だかよくわからない」
この「無知」が恐れを知らぬ投球につながったのかもしれません。マイナーリーグでのピッチングをそのまま出し切ることで、メジャーでも通用する投手となりました。
「村上を使うと殺す」脅迫状が届くほどの好投
マッシー村上はドジャース戦で特に好調だったようです。あまりにもドジャース相手に好投するため、監督に「村上を使うと殺す」という脅迫状が届き、一時はFBIが見張っていたというエピソードまであります。
「あと5、6年は(MLBの一線級で)できた。食事はうまかったし、楽しかったよ」と、当時の米国生活を懐かしむマッシー村上。日米両球界の取り決めにより「留学」は2年で終わってしまいましたが、その短い期間でもメジャーで5勝1敗9セーブ、防御率3.43という立派な成績を残しました。
とくに1965年シーズンは奪三振率10.29という驚異的な数字を記録。74.1イニングで85奪三振と、サウスポーから繰り出すスクリューボールとチェンジアップが、強振するメジャーリーガーたちを翻弄したのです。
ウィリー・メイズと60年続く友情
マッシー村上は誕生日が同じ5月6日のウィリー・メイズとは特に親交が深かったといいます。メイズは野球界の伝説的存在で、村上氏が91歳になった今でも、クリスマスカードが届くという関係を保っているそうです。
またピッツバーグの強打者ロベルト・クレメンテとの出会いも印象的でした。「ヘイ、マッシー」と声をかけられ、「誰?」と聞くと「ロベルト・クレメンテだ」と答え、自らロッカーに走って色紙を持ってきてサインをくれたといいます。
「もし有名になったらボランティアを」クレメンテからの宿題
そのクレメンテからのメッセージが、マッシー村上のその後の人生を大きく変えることになります。「もし大きくなったら(有名選手になったら)ボランティア活動をやってくれたら」というクレメンテの言葉が耳に残り、約30年にわたる社会貢献活動へとつながりました。
毎年チャリティーゴルフを主催し、スペシャルオリンピックスへの寄付や国連UNHCR協会への支援など、多岐にわたる社会貢献を続けてきたマッシー村上。その功績により、2024年に日本スポーツ学会大賞を受賞しています。
日米で起きた「マッシー争奪戦」
1964年シーズン終了後、マッシー村上をめぐって南海とジャイアンツの両球団が保有権を主張する騒動が勃発しました。この問題は日米のコミッショナーが調停に乗り出すほどの大事に発展。
最終的には「1965年シーズンはジャイアンツでプレーし、次シーズン以降は村上選手の自由意思に任せる」という条件で決着がついたものの、村上氏自身は「あと5、6年はメジャーでできた」と語るように、日本に戻ることへの未練も感じていたようです。
「日本人初」の勲章を超えた人生
2022年8月の始球式では「今まで10回以上始球式をさせていただきましたが一番緊張しました」と話し、ワンバウンドの投球になりながらも、「皆さんに投げる姿をみていただいてとてもうれしかったですし、最高の気分です」と笑顔を見せました。
2024年で日本人初のメジャーリーガー誕生から60年。今や大谷翔平や山本由伸など多くの日本人選手がメジャーリーグで活躍していますが、その礎を築いたのがマッシー村上でした。
「人生は1度だけ。これと決めたら、最高峰に向かって悔いのない人生を送ってほしい」という後進へのメッセージには、日本人初のメジャーリーガーとしての誇りと、チャレンジ精神が今も息づいています。
2025年3月15日カブス対阪神戦では始球式を務め、見事なノーバウンド投球で大歓声を浴びました。
メジャーでの2年間とその後の人生を通じて、マッシー村上は「日本人初のメジャーリーガー」という勲章以上に大切なものを残してきました。大リーグのマウンドで「スキヤキソング」を口ずさみながら緊張を乗り越えた20歳の若者は、60年の時を経た今も、多くの人に勇気と希望を与え続けています。